宮城県植物誌
関係資料

中間温帯の植物
(佐々木豊氏遺稿より)

花の絵本(2)  ススキ

  秋風が立ち始める頃、株立ちになって茂った葉の間から一段と高く茎を伸ばして、その先に細長い穂を十〜二十数条束ねた花穂を出して咲く大型のイネ科の多年草。一つ一つが小さくて目立たないススキの花は、虫に頼らない風媒花である。その結実した小さな軽い種子の先端には細く尖った禾(のぎ)があり、基部には白い毛が束になってついている。

 咲き始めは「花(はな)薄(すすき)」、高く茎を立ててはためく姿は「旗(はた)薄(すすき)」、木枯らしの吹くころには「枯れ尾花」と、様々な姿が古くから詩や歌に詠まれている。昔から多くの日本人が、その時々の風に揺れるススキの風情を、親しみを持って見ていたのではないだろうか。秋の七草として、目立たない風媒花の「尾花」(ススキの古名)を選んでいるのもその証しであろう。
 ヨモギの若葉を摘んだ土手が、いつの間にかススキが生えた原っぱに変わっている。一時は威勢のよかったセイタカアワダチソウも、気づいたら、ススキの中に埋もれてしまっている。休耕してハコベやアカザなどの雑草がはびこっていた畑も、数年後には、ススキに覆われている。街の中でも、空き地や人が住まなくなった家の庭などを放置すると、やがてススキが繁茂してくる。山中の木を伐採した跡地では、最初はいろいろな草花が目立っているが、遠からずススキの群落に変わってしまう。日本では、いったん人が手を加えた土地を自然に任せれば、そこにススキ群落ができるのは避けられない。ススキは株をつくって叢生(そうせい)するうえに、草の中でもことさらに草丈が高く、たくさんの種子をつくるためである。石巻地方の丘や山でも、これまで一度もススキが生えたことのない場所はほとんど無いと言ってもよいくらいである。おそらく、私たちの先祖にとって、ススキの草原の光景や一株毎の花模様は、ごく身近なものだったのであろう。

 山のススキ群落(硯上山) 
遠くに見えるは金華山、中ほどは光山、近くは石投山

 平安時代の随筆「枕草子」の中で、清少納言は、撫子(なでしこ)、女郎花(おみなえし)、桔梗(ききょう)、萩(はぎ)など秋の野の代表的な草花を挙げた上で、「秋の野のおしなべたるをかしさは薄(すすき)こそあれ」と書いている。
 彼女の観察力と自然の見方の広さに敬服する。あの世に行ったら、ぜひ会ってみたい。彼女は、後年あばら家に住み、落ちぶれた暮らしぶりであったということは、把握している。それを唯一の探る手がかりにしたい。ざっと900〜1,000歳年上の大先輩の彼女(年を取って無愛想になったという情報もある)は、100歳になるかならないかの幼い(自称)平成のイケメンが、「ススキつながり」ということで、訪ねて行ったら会ってくれるかなぁ。庭の一角に、昔住んでいた茅葺きの小さい家を建てたいと思っていたが、消防法というものがあって、夢が叶わなかった話などを用意している。
 それはともあれ、1年にたった1日だけでもいいから、秋のさわやかな風に吹かれて、ススキを愛でに出かけてみませんか。まっすぐな若い穂、すこし開いて垂れ下がった穂、濃淡さまざまな紫色やうす黄色を帯びた穂など一株一株の多様な穂の花模様と、それらが入り混じるススキの草原。年に1回でも、何年も続ければ、それらの光景のすべてに接し、それ以上の体験ができるかも知れません。
 のんびりとススキの生える自然を歩きながら、今では遠くなりつつある、自然そして昭和の時代まで続いていた人々の暮らしを、偲んでみるのもたまにはいいものですよと、自然に対して出不精になっている人に、私は勧めたい。
35年前に作ったススキのミミズクとオギのフクロウ

このページのトップに戻る↑